八甲田山 ナチュラリストたちの花園

八甲田山の雪田を彩るイワイチョウ、高層湿原の初夏の風情をかもし出すワタスゲ、人知れずひっそりと咲くユキワリコザクラ・・・・。そしてこのほか多くの植物の学名に Fauria とか Fauriei 、Fauriae などといった名前が付けられている。これはフランス人・フォリー氏のことであるが、なぜ? この人はいったいどういう人なのであろうか!? 
フォリー氏は明治15(1882)年から大正4(1915)年まで30年間の長きにわたって青森市を中心に布教と植物採集をしていた"神父"である。当時の新聞がその時々の彼の動静を伝えるほどの大変な名士であった。神父が発見した植物の新種は約700種といわれ、そのうち約70種に神父の名前が学名として冠されている。第1回で紹介した郡場寛博士は青森県第一中学校(現弘前高校)2年生のとき神父に初めて会っているが、その後八甲田山で神父から植物について教わったりしている。"植物図鑑の父"といわれる牧野富太郎先生ら、多くの植物分類学の権威者たちが本州北端のこの地まで、神父に会うための"青森詣"までさせたというフォリー神父・・・・。



@A 八甲田山のどこかで、人知れずひっそりと咲くユキワリコザクラ。 Primura Fauriae (棟方氏撮影)




 第4回 フォリー神父と植物採集    12月2日
〔 Urbain Faurie、1847〜1915 〕    


   目  次

「"青森県が日本の学府"フォリー神父と植物採集」 ・・・・ 青森での神父のあらすじ。 「今 昔 談」(抜粋) ・・・・ 郡場寛先生の明治29年頃の神父との出会い。 「超人的な採集行」(抜粋) ・・・・ 佐藤圭一郎著「偉大な植物採集家 ウルバン・フォリー神父」(1970)から。 「エピソード」(抜粋) ・・・・ 上記著書から。樹上で眠ったり、スパイ嫌疑など。 「風格ある採集家」(抜粋)・・・・ 上記著書から。神父採集数万点の標本に学界の権威たちが青森詣をしたという。 「フォリーと名の付く植物」・・・・ 約700種の発見、約70種に神父の名が付けられた。 「編集者あとがき」



B ウルバン・フォリー神父(1847〜1915)。


  "青森県が日本の学府"フォリー神父と植物採集(抜粋)

   ― 「ATVホームニュース」(1985)から― ・・・・   室 谷 洋 司


明治のなかばから大正初期にかけて、青森市を本拠地として布教のかたわら、日本はもとより広く東アジアを舞台に植物研究に一生を捧げた偉大なフランス人神父がいた。
 当時の『東奥日報』をみると、「仏人フォリー氏のおかげで本市は日本の学府」と報ぜられているように、同神父の学問的業績は内外に高く評価され、「牧野植物図鑑」で知られる牧野富太郎氏や、当時、日本を代表する植物学の権威者たちが、研究調査のために青森を訪れていたのである。明治24年(1891)に、上野・青森間に鉄道が開通してはいたものの、今とちがって中央からみた青森は、まったくの遠隔の地であった。そのような時代に学者たちの足を、この地にまで運ばせた高名なフランス人とは・・・・。
 ジャン・ウルバン・フォリー(1847〜1915)は弘化4年1月1日、フランスのリヨン市に近いデュニエール村に生まれた。明治6年(1873)、26歳でパリ外国宣教会の神学校を卒業すると、海外派遣宣教師として日本におもむくことになった。
 フォリー神父が横浜についたのは同年八月のことで、その年の秋には新潟で開拓伝道にあたっていたエヴラル神父を助けることになった。エヴラル神父のところには、書生として若き日の原敬(大正デモクラシーの代表的政治家)がいたが、フォリー神父は彼と起居をともにし、日本語を学んだといわれる。その後、東京に転出し布教や伝道教会の教師をつとめたりしたが、明治15年(1882) には、札幌や函舘に伝道所をつくり、北海道と青森県の巡回布教師として伝道につくすことになった。
 青森県では、はじめ数個所に伝道所を設け洗礼を授けていたが、明治20年(1887)には、今の弘前教会の場所に小聖堂を建て、さらに明治34年(1901)には青森市の教会も現本町教会の所に移転新築するなど、青森県における布教活動が地道に続けられていった。
 フォリー神父は、粗末な法衣をまといながら、ミサの聖具や聖書、食糧、それに植物の採集道具を入れた大きな袋を背負い、県内に散在している信者を、どんな辺びなところでも訪ね歩き、説教しては求道者に洗礼を授けていったのである。そして、青森教会主任の職をとかれる大正2年(1913)11月まで、青森県を拠点にした活動は30年間の長きにおよんだ。



C フォリー神父の生家。(小野、1970から)

D 生家があるフォリー部落。(小野、1970から)


 さて、布教活動のために日本にはるばるやってきたフォリー神父は、はじめに記したような、日本はおろか欧米の学者からも高い評価をうけるようになった植物採集を、どのような動機ではじめることになったのであろうか。神父の伝記資料にあたると、それは日本で最初に派遣された新潟時代にさかのぼり、フォリー神父の研究者で、『偉大な植物採集家・ウルベン・フォリー神父』(昭和45年刊)を著した佐藤圭一郎氏(青森県青年の家所長=現・弘前市教育長)によると、「師はエヴラル師について布教につとめたが一人の求道者もなく、布教としては全く不毛の地だった。さすがのフォリー師もゆううつになり、教会から抜け出しては近くの海浜の砂にひざまずくことがしばしばあったという。師は悲痛な沈黙の祈りを浅度か捧げた。沈黙は師の心を次第に大自然の摂理と、人の心の尊い結びつきの哲理に根を下させていったのだった・・・・」。
 このように、ファーブルが昆虫によって信仰を証明したように、フォリー神父は植物の研究から真理探索につとめたのだといわれる。  植物分類学の領域はひじょうに広く、この中で神父が的をしぼったのは蘚苔とか地衣類が中心で、これらは当時、日本の学者がまだ手をつけていなかった未知の分野であった。
 その分類学は、まず最初に採集と標本製作からはじまる。神父の植物採集は、明治16年(1883)の北海道、青森の伝道に従事したころから本格化し、北海道、青森県内で採集し、明治19年には秋田、岩手、クナシリ島にまで足をのばした。本国のパリ博物舘の通信員になったり、またフランス学士院会員に推せんされるなど、その功績は次第に認められていった。
 神父の植物採集の手法は、超人的な採集旅行で得られた多数の植物を?葉標本(おしば) にする。これらのぼう大な標本を自らざん定的に分類し、重複する同じ種類のいくつかを教会の横にある植物標本収蔵庫に残し、残り全部をヨーロッパ各地の博物館や学者に送る。各分野の専門家は研究によって新種については学名をつけて発表し、すでに知られて いる植物には正しい学名をつけて神父に知らせてくる。先方の各博物館には新種命名につかった基準標本が残され、青森の神父の手元にはその新種の副基準標本が保管されることになる。当時、まだ処女地の感があった日本およぴその近隣地域からは、つぎつぎと新発見が出て、ヨーロッパの学界を賑わすことになった。
(中略)
このように多くの危険をおかしながら、奇怪な服装、いでたちで採集するフォリー神父。ところが海外の学界では、その功績が讃えられ、さらに日本の学者も植物研究に神父の標本が必見とあっては、青森県が誇るおしもおされぬ名士である。
『東奥日報』は、神父のときどきの動静を伝え、たとえば明治37年6月17日付では、
 「フォリー氏の出発 当地浜町フォリー氏は秋田地方より順次東京まで植物採集の筈なりしが、都合に依り盛岡の諸山を採集し各地を経て東京に赴く由にて、昨日午後盛岡に向け当地を出発せり。」などと報じている。そして採集旅行は、さらに広がり、北は礼文、樺太、エトロフ島、西は朝鮮、東はハワイ、南は台湾にまでおよんでいった。
 当時、欧米から入ってきた近代科学の萌芽は、はじめ中央で育ち、やがて地方に広がっていった。青森県では明治38年(1905) に弘前で、翌39年には青森で、それぞれ博物学会が設立され、師範学校や県立中学枚(旧制)の教師・生徒、営林局や各試験場の関係者たちの間で研究の成果が発表されたりしていた。神父は、このような会合にも、ときどき姿をみせ影響を与えていたといわれる。当時の日本の植物学者が教えを乞うほどの、著名な神父ではあったが、しかし実に誠実で誰にも謙虚な態度をくずすことがなかったともいわれる。
 大正2年(1913)、フォリー神父は、前年の青森大火で、レンガ造りの植物収蔵庫だけを残して焼失した青森の浜町教会を再建し、これを最後に青森教会主任の職をはなれ、余生を好きな植物採集ですごすために台湾に渡ることになった。66歳になっていた神父は、台北の大稲?数会に本拠をおき全島の採集を精力的につづけたといわれる。
 そして、大正4年(1915) 5月、台湾東岸の花蓮港の山岳で採集中に健康を害し、台北に帰ったが、ついに7月4日、昇天されたのである。66歳であった。
 神父の植物分類学上に残した功績は偉大なものがあり、採集した植物標本で各国の学者が発表した植物の新種は約7百種。そして、学名にフォリー神父の名前が捧げられたものは約70種にものぼる。
 青森市の教会に、大切に収蔵してあった神父の遺品の一万余種、62,440点の標本は、大正9年(1920)京都大学理学部生物学教室に保管されることになった。それは、元弘前大学学長で青森市出身の郡場寛博士が、京都大学教授時代のことである。学界の関係者は、日本の植物学発展の基礎となった、これらの標本が海外に流出することを恐れ、同博士らが奔走して篤志家の協力も得ながら、フォリー神父の偉大な遺産の安住の地として京都を選んだのである。



E イワイチョウ Fauria japonica (棟方氏撮影)

F ワタスゲ Eriophorum Fauriei (棟方氏撮影)


    今  昔  談(抜粋)

   ― 「郡場寛先生遺稿集」(1958)から ― ・・・・・・・    郡  場   寛


私ガ Faurie ヲ知ツタノハ 明治29年中学二年生ノ時デ今カラ62年前デアル。当時氏ハ弘前ニオリ 天主教ノ宣教師トシテ勤メテ居り,子供等ガ訪ネテ行ツテモ ヨク逢ツテお話シテクレルソウダ トイフコトヲキイタノデ 物好半分ニ友ダチ3人デ,ダシヌケデハアリマシタガ,訪問シタコトガアリマス。スルト心ヨク室へ通シ種々神様ノお話ヲ話サレ 最後ニ紙腔琴ヲマワシテ フランスノ音楽ヲキカシテクレマシタ。其時ニハ植物ノ話ナドハ何モ出ズ 私等モ Faurie ガ植物学者ダナドトイフコトハ 夢ニモ知リマセンデシタ。 私ハ中学ヲ卒業シタ時ニハ F氏ハ青森ノ教会ニ居リマシタ。ソノ当時 私ハ已ニ植物ノ採集ヲ始メテオリ F氏ガ植物ヲ採集シテイルコトモ聞イテイマシタ。ソシテ私ヨリ三年前ノ卒業生デ青森ノ小学校ノ先生ヲシテイタ人ガアリ F氏ニ師事シ標本ノ整理ヲ手伝イナガラ 勉強シテイル人ガアリマシタノデ其人卜連絡シテ Fノ所へ行ツテ標本ノヤリ方ヲ見セテモライマシタ。蘇苔類ノ標本ハ ?葉ニセズ新聞紙デ作ツタ西洋封筒大ノ袋へ一種ヅツ入レテ 外ニハ名前ヲ書付ケテアリマシタ。
 私ハ三月卒業シテカラ 二校〔高〕ノ入学試験ハ7月〔編集者注・明治33年、18歳〕ニアリ 其間暇ガアリマシタノデ 春カラ堅雪ノ酸湯温泉ニ行キ ブナ帯 トドマツ帯ナドヲ歩キマワリ採集シマシタ。蘇苔地衣ハ ブナ帯ト トド松帯トデ夫々違ヒマスガ 八甲田山ニモコンナニ種類ガ沢山アルモノカト 驚イタ位デシタ。 私ハ一春ノ間ニ蜜柑箱一杯ニナル位採集シマシタ。然シ名前ヲ聞ク時間ガナク ソノママニシテオイテ 遂火事デ焼イテ仕舞ヒマシタガ 然シ名前ハワカラナクトモ種類ノ区別ハ 大体ワカリ非常ニ為ニナツタト思ツテイマス。
 当時ハ 顕花植物デモ参考書ハ飯沼慾斎ノ本草綱目卜斎田功太郎サンノ大日本普通植物誌位ノモノデ 之等ノ本ニ記載サレテイナイモノガ多ク 名前ヲ知ルニモ中々骨ガ折レ,ヨク知ツテル人ガ 此地方へ採集ニ来ラレタ時 直接聞カナケレバ名前ヲ知ル機会ガナイ位デシタ(脚註:名前ハニノ次デアリ 実物ヲ見テ区別スル目ヲ養フコトガ大事デアル) 況ンヤ蘇苔地衣ナドハ 目立ツモノヤ 有用ノモノノ外ハ和名ハナク 名前ハ皆学名ダケデシタ F氏ハ蘚苔地衣禾本科ナドハ特ニ興味ヲ以テ採集シタ。
 私ガ大学ヲ卒業シテ二三年立ツタ頃ニ〔編集者注・明治41、42年頃〕 Fガマタ八甲田山へ採集ニ参リマシタコトガアリ 二三日ユツクリ種々お話ヲシタコトガアリマス。Fハ仏国デ地方ノ専門学校デ ー般教養ヲ受ケタ後 Parisノ大学ニ行キ 神学ノ外ニ植物学ヲモ学ンダ。但シ海藻類ノ講義ダケハ遂サボツテ聞カナカッタ。ソレデ日本ヘ来テカラモ algae〔編集者注・藻類〕 ハ採集シナカッタ。Fハ採集標本ハ自分デ研究スルノデハナク 之ヲ皆 Paris 其他ノ専門家ニ送り検定発表シテモラッタ。真ノ採集家 florist デアリ分類学者デハナカッタ。而シテ私ガお話ヲ聞イタ頃ニハ 日本ニモ分類学者ガ次第ニ多クナリマシタノデ 目珍シイト思フモノハ Paris ト東京ノ両方へ送ツタ。ソレデ巴里自然博物館ノ Leveille 〔編集者注・レヴイエ=フランスの植物分類学者〕ト東京ノ中井君〔編集者注・中井猛之進=植物分類学者〕トガ屡々違ツタ意見ヲ発表スル。Fハ両方ニ喧嘩サセルノガ面白イト 屡々話ノ内ニ言ツテ居タ。
 Fハ 標本ノ作り方ハ頗ル粗末デ,旅行中 新聞紙ニ挟ミ金網卜細引デシバッテイテ 火ノ上デ乾カスノデ 色ハ皆サメテ褐色ニナリ 網形ガツイテ残ツテイルノモアル。作ツタ?葉ハ 人夫ノ居ナイ時ニハ自分デ両肩ニカケテ 青森迄歩ルイテ来ル位デシタ。当時ノ山路ハ歩クカ 馬デ往復シタ時代デアツタノデシタガ 夫ヲ平気デヤツテイタノデアリマス。
 Fハ生活ハ極メテ単純デ 標本ヲ作ル時 手先ニツイタ糊ナドハ布ガ見エナイト イガ栗頭ノ髪ノ毛ヘナスリツケテ間ニ合ハセル。又コーヒーヲ女中ガモツテ来ルト ソレヲ呑干シタ後デ皿ニコボレテルノガアルト ソレヲコツプへ入レカヘテ 呑千シテ仕舞フト云フ 山旅行ニ馴レタ簡粗ナ生活振ノ人デシタ。ソレデ最後ニ 新高山ニ採集ニ行キ 山中デ露営シ熟睡シテ居タ時ニ 山蛭ガ鼻孔カラ鼻腔ニ入り,夫ニヨリ台北病院ノ病床ニ就カレタガ 脳貧血ヲ起シテ遂永眠サレタノデシタ。夫ハ大正4年7月4日亨年70才デアツタ。
 Fハ日本ハ勿論千島・台湾・ハワイ迄モ行カレ 採集シタ標本ニハ皆番号ヲツケ 其数6万余 種類数1万余ニ達シタ 青森ニ残サレタ標本ハ 其後神戸ノ岡崎〔忠雄〕トイフ銀行家ノ寄附デ京都大学植物学教室ニ蔵マリ,木梨〔延太郎〕トイフ 以前長ク青森師範ノ教諭ヲシテイタ人ガ 標本ノ整理ヲ致シマシタ。
 Faurie ハ日本デ 末ダ植物学ノ発達シテイナイ時代ニ日本へ参り 日本ノ植物ノ新種発見ニ 大ニ貢献セラレ 殊ニ蘇苔地衣デハ先鞭ヲツケタノデアリマス。マタ日本ノ植物学者ヲ刺戟シタ点モ大キク 又地方ノ人々ノ自然ニ対スル関心ヲ 高メタコトモ大キカツタノデアリマス。
(後略)




G神父の業績を記念し、台北植物園に大正6年に建立した胸  像。昭和20年の終戦を前に軍の金属回収で取り壊された。  (小野、1970から)


    超 人 的 な 採 集 行

   ― 「偉大な植物採集家 ウルベン・フォリー神父」(1970)から ― ・・・・・・・
                             佐 藤 圭 一 郎


 フォリー師が来弘されて9年目、1891年(明治24)の青森県カトリックの教勢は信徒数124名、教会は弘前に一、巡回伝道所は三本木と青森の二ケ所というまでに発展した。師は一応青森県の布教の基礎は出来たと解し、そのためか、師は休む暇もなく伝道しながら植物採集に精出した。
1887年(明治20)には奄美大島、1888年(明治12)には佐渡、鳥海山、浅間山、1890(明治23)には江差、根室、網走と次第に採集期間も長期にわたるようになってきた。師は定住しての伝道がむずかしくなり、遂に1890〜1894年(明治23〜27)まではクリスマン神父とカロン神父がフォリー師に代って青森県の伝道を受け持つことになった。
 フォリー師は1891年(明治24)には礼文島、エトロフ島、1892年(明治25)には釧路、1893年(明治26)は苫小牧、阿寒、礼文島と相変らず飛びまわり、その間に札幌郡広島村(当時)の教会をはじめ、1893年(明治26)には室蘭にも教会をつくった。他に小樽、紋別、樺太の各地には外国宣教会の土地を買い求め飽くことを知らなかった。これ等はいずれも弘前の教会のときと同様、植物標本から得られた資金によって買い求めたのだった。
 1894年(明治27)寝食を忘れての布教と植物採集に原因した疲労がフォリー師の健康をかなり憂うべき状態にさせてしまった。しかし、師は病気には一向に無関心で相変らず走りまわった。憂えたペルリオーズ司教は、フォリー師に休養をあたえ、1895年(明治28)の3月、強制的にフランスヘ帰国させた。師の病状は頭痛と胃痛が激しく5分と読書ができないほど悪化していたということだった。しかし、師は日本からフランスに向う船中では世界各地の植物学者に配布する植物の?葉標本(500キログラムもあったと云われている)の整理を毎日行ないながら病苦をまぎらし気分を晴らされたということである。
 22年ぶりに帰る母国のフランスの環境はすばらしかった。すべての環境が師を柔らかく包み、とりわけ家族の手厚い看護に師の病気は日に日に追いやられ、元来頑健な師の体力と気力はすっかり回復されたのだった。治るにつれて師はじっとしていられなかった。持参した植物標本の整理分類は師の日課のすべてであるような忙しさだった。これらの標本はフランス、スイス、イタリア、イギリス、アメリカ等七国の植物園に頒布されたのである。
すっかり健康を回復された師は「一日も早く日本に帰りたい」と、帰心矢のごとく湧き「半年前から私の胃袋の中には虫がいなくなった」「虫と一緒にすべての病気もどこかに行ってしまった」と自身で記録するくらい日本への布教と植物採集に情熱を燃やしていたのだった。  同年12月5日、師はすっかり健康を回復し、再び日本へ帰って来られた。そして、千島・北海道の巡回宣教師の職を解かれて新たに青森教会の主任司祭に任命されたのである。これにともない、1897年(明治30)ビアニック師が三本木へ赴任し、その2年後には弘前へ定住司祭としては最初のモソジュ師(伝道土は新谷正清)がやってきた。
 フォリー神父は伝道と植物採集にこれまで以上の情熱を傾けられて浜町教会にはレンガ造りの二階建ての立派な倉庫までつくられた。このレンガ造りの倉庫は今は一階の片流れの屋根に改装されて信者の集会やボーイスカウトの団の巣になっているが、当時は内部いっぱいに棚を設けて植物の?葉標本館の様相を呈していものだつたという。信者の方には心易く見せたそうだが、「これは私の大切な宝物です」という言葉に、信者の方々は手をふれなかったという。しかし、年2回の虫ぼしといわれた標本整理日には、信者や青年会の方々が何日もかかって羽ぼうきを手に台紙の塵をはらわれたということである。
 1898年(明治31)には磐梯山、戸隠山、日光、伊豆、富士山と本州の中央部に主眼をおき1899年(明治32)には大山(鳥取県)、阿蘇山・利尻島と日本列島を縦断し、1900年(明治33)には九州方面剣山・鹿児島・桜島、1901年(明治34)には対馬、1902年(明治35)に金華山、1903年(明治36)には有馬・宮島・地蔵岳・台湾、1905年(明治38)には駒ヶ岳・御岳・乗按岳、1906年(明治39)には台湾・朝鮮、1908年(明治41)には樺太、1909〜1910年(明治42〜43)はハワイと、範囲は次第に長駆の採集旅行となっていったのだった。
 これらの採集地を師の年代と合わせて考察してみるならば、師の30代はどちらかというと青森県を中心として東北地方の採集に主眼がおかれ、40代は北海道、50代は日本列島を北・中部・南と重点的にしかも北の次は南、南の次は北もしくは中央と、青森県での伝道活動の津軽から南部、南部から津軽へと交互になされた動きに相共通するものがみられる。師の植物採集に関してはおそらく欧米の植物学者からの依頼もあったことと思うが、それにもまして師の気質がそのような超人約な採集行にはしらせたものと思われる。
 六〇代は日本列島外の樺太、ハワイ、台湾へと晩年においても植物採集だけは一日として休むことを知らなかった。師の晩年にいたる、この青森にあっての一八年間こそ、師が植物採集家として最もすぐれた才能を発揮された時期といえよう。




H 青森でのフォリー神父(右)。中央はカロン神父、左は新谷神父(当時は伝導士)。   (小野、1970から)



    エ ピ ソ ー ド(抜粋)

   ― 「偉大な植物採集家 ウルベン・フォリー神父」(1970)から ― ・・・・・・・
                             佐 藤 圭 一 郎


(1)樹上で眠る
 師が弘前に住んでいた時の話である。ある日、師は例のごとく一人で岩木山へ採集に出かけた。夢中に採集しているうちに日はすっかり暮れてしまい、山で一夜を明かすことにした。師は大きな枝をもつ木にのぽり、その枝に体をもたれかけ、革バンドでしっかりと体をしばりつけ、ぐっすりと眠った。翌朝、山に柴刈りに来た村人がこれを見てびっくりし、「異人さんが山の木に縛られて死んでいる」と村中に伝えられたので大騒ぎをしたことがあった。                      (弘前市 新谷勇氏談)

(2)スパイのけんぎ
 日清戦争が終って間もない頃だったが、師は北郡の山(梵珠山方面の山らしい)へ採集に出かけたのだったが、何日も山奥で過ごしているうちにすっかり方角がわからなくなり、何日か迷ったあげく、山男のような姿で突然北郡の村へあらわれた。村民は師をあやしみ、男たちは師を駈在所に連行した。巡査は日本語を話す不思議な異人ということで、「スパイではないか」といろいろ取り調べを行ない、師はひどい目にあったという。                             (弘前市 新谷晟氏談)

(3)師も崖から落ちる
 朝鮮に植物採集に行っていたある日のこと、日頃採集したいと思っていた植物が崖の曲がりくねったところにみつけたので、なんとか手に入れたいものと、危険をおかして登っていった。ところが不幸にも石がくずれてアッというまに転落してしまった。神父の落ちたところは陶器をつくる工場であったが、粘土をこねている婦人たちの間に、ドシンと大きな音と一緒に真黒い服をきた人間が落ちてきたのに仰天して婦人たちは悲鳴をあげて逃げ出した。                  (小野忠亮「青森県とカトリック」)

(4)背のないシャツ
 これはオーゼ神父様から聞いたお話なんですが、ある時、フォリー神父様とオーゼ神父様は県内のある温泉に行かれたそうです(多分、八戸・塩町カトリック教会の建築工事を終えて間もない頃と思う)。温泉はたくさんの人でにぎわっていましたが、スータンを脱いだフオリー神父様のシャツは、ポロポロで背中には白い布片すらついていなかったそうです。これを見たオーゼ神父様は周囲に恥ずかしく思い、フォリー神父様から離れようとしたところ、フォリー神父様はオーゼ神父様をつかまえて、周りには一向気にかけず、大きな声で「これこれ人間誰しも生れてきた時は裸なんですよ」と自身のなりふりには全く頓着しなかったという。フォリー神父様は本当に辛抱強いお方で布教のためにはどんなにか節約されたことかわかりません。                                    (青森市 小野はるゑ氏談)

(5)バンザイ
1910年(明治43)5月、青森市に大火があって、教会も聖堂と司祭館を類焼してしまった。しかし、幸いにも標本を入れてあったレンガ造りの蔵だけは無事だった。このとき神父は遠くハワイへ採集に出かけて不在だったのである。旅行先の神父あてに「青森大火、教会堂焼けたが聖体無事と」打電したところ、「蔵焼けたか」と折返し返電がきたので、「クラブジ」と知らせてやったところ「バンザイ」との返電がきた。師が心配されたその蔵には、師が最も大切にされた採集植物がギッシリ入っていたのである。
                                    (新谷忠治「フォリー神父に就ての思ひ出」)
(後略)


   風 格 あ る 採 集 家(抜粋)

   ― 「偉大な植物採集家 ウルベン・フォリー神父」(1970)から ― ・・・・・
                             佐 藤 圭 一 郎


 この植物はフォーリーアザミのようだ、と思っていても異種であるかも知れない。そんな時、座右に「植物図鑑」があれば別であるが、しかし、若しかりにあったにしてもその正確な検定となるとなかなか難しいものである。
 そのようなとき、基準標本ともいうべき信頼に足る標本があって、それと引き合わせてみられるならばまことに幸いなことである。  フォリー師は、この原本とも云うべき一万余種におよぶ日本の植物標本を大切に保存されていたのである。当時、日本の植物について本を著わそうという学者は、一度はこのフォリー師の標本と照合し、種名同定に相違ないかどうかを調べなければならなかったのである。このような意味で、フォリー師は創明期にあった日本の植物学界の権威ある採集家、いや、当時としては、むしろ学者と見なされていたのである。
 朝鮮の植物について著書を出版された中井猛之進氏は、フォリー師の標本を見ずに第一版を出したため、後、欧米の文献を調べるにおよんで、フォリー師が、すでに研究整理された植物があまりに多いのに驚き、大改訂の必要にせまられた。1912年(大正1)の夏、中井氏は約一ケ月、青森市のフォリー師のもとで標本を一つ一つ照合し研究されたのである。



I 青森市本町(旧浜町)の教会聖堂
.

J 同左、右手のレンガ造りが神父の植物収蔵庫。(大正2年再建、小野、1970から)


 また、北日本、とくに樺太・北海道の植物の権威宮部金吾氏も、その頃、大著述に専念されていたが、1913年(大正2)の春、約一ケ月間フォリー師の司祭館で標本を調べられている。
 このほか、フォリー師の助力によって著述や論文発表に自信を得た学者は多数におよんでおり、日本の斯界の権威である児玉親輔、工藤裕舜(1887〜1931)、牧野富太郎(1862〜1957)の各氏も来青されていたのである。
 当時の東奥日報紙上に「仏人フオリー氏のおかげで本市は日本の学府」と報ぜられたのも過言ではなく、むしろつぼを得た至言といえるようだ。
1913年(大正2)6月14日、東奥日報の記者郡場徹氏(筆名秋蝶・郡場寛氏実弟)と木梨延太郎氏(明治30〜大正2二秋まで青森師範教諭、フォリー師と親交がもっとも厚く、氏自身も新種五種発見、大正9年〜13年まで京都帝大勤務、フォリー師の標本整理にあたる)が一しょに浜町の天主教会の司祭館を訪ねたことがあった。
木梨氏が勝手知る二階の居室に入ると、フォリー師は、チヂミのシャツにズボンというごく質素な姿で、右手に虫メガネ、左手に地衣類の標本を持ち、一生けんめい種分けしていた。
「きょうは友達を連れてきました」と木梨氏が記者を紹介、フォリー師はにっこり笑顔をみせ、記者も「ご秘蔵の標本を拝見にきました」と挨拶すると、「そうですか、お友達よろしい。どうぞ、ごゆっくりご覧なさい」と隣室の標本を指された。
記者は、かねてうわさは聞いていたものの、いま目のあたりに見るその莫大な標本を見てまず驚かれた。そこには丈夫なメリヤス箱10数個のほか、棚の上には隙間もなく積み重ねられてある標本は何万何千点あるかわからない。
この標本こそは、師が長い期間、時間をかけて、松村任三著「日本植物名彙」と一々頁を合わせて整理したものであり、いつでも見出し頁に合わせて目的の標本を抜けるようになっているのだった。このエネルギーを消耗するような整理を、師は誰の手も借りずにこつこつと一人で成し遂げられたのだった。
記者の驚かれたのはこれに止まらず、ひと月のうちに、北は北海道から南は富士山、妙義山あたりまで二度も往復することも珍しくないということを聞き、全く、その天与のエネルギーの絶大なのに驚嘆せざるを得なかったのである。
植物学のうちでも、日本人のことに幼椎だったのは、地衣、蘚苔類に関する研究で、この方は未だ外国の植物学界から独立し得ない時でもあっただけに、フォリー師がもっとも得意として採集された蘚苔・地衣類の標本はいかに価値高く貴重なものであったか知れない。松村博士の著書もフォリー師の標本を処理するには余りにも小さすぎたようだった。
 フォリー師は訪問された二人に、近くフランスに帰省すると話されており、「そのとき持って行く標本は、地衣類だけでも4000枚からだ」と、いともかるく話されている事実からも、師の数的スケールの大きなのには驚嘆のほかないのである。
フォリー師は分類整理に一区切りを見出したとき、二人のいる標本室に入って来られた。記者は「お忙がしいところをお邪魔です」というと、フォリー師は「いや、ゆっくりご覧なさい」と、他の地衣類の標本に手をかけた。記者は、その標本について説明を求めると「私は土方です。ただ採って歩くだけです。詳しいことは木梨さんに聞いてください」と実に謙虚な言葉をはかれた。
 数万におよぷ整理された標本をもち、斯界の権威者も助言を乞うほどの師にしてこの言葉である.
師は実に誠実な方だった。すでに深い学問を修めていたにもかかわらず、人に対してはあくまでも謙虚の態度を忘れなかったのである。




K フォーリーアザミ Saussurea Fauriei

L フォーリーガヤ Schizachne Fauriei


フ ォ リ ー と 名 の つ く 植 物

― 約70種におよび、新種発見は約700種―

フォリー神父の採集の足跡は全国くまなく日本列島はおろか、遠くは樺太、朝鮮、ハワイ、台湾方面にまで足をのばしている。しかも、その採集植物にいたっては、顕花植物・シダ植物はいうにおよばず、日本の植物学者の分類研究がおよばなかった蘚苔・地衣類にいたるまであらゆるもので、その殆どの正標本は、欧米のそれぞれの専門家に送り、種名同定を依頼したのである。学者たちは、植物学の専門雑誌に次から次へと発表し、師の植物に対する学究的情熱とその労苦に報いた。「宣教師・植物学者 フォリー神父」(小野忠亮、1977)によると、フォリー神父が発見した新種植物は約700種といわれその数は驚嘆にあたいする。
これらの学者による無数の発表はいずれも欧文であったため、わが国の学者の目にうつる機会が少なく、したがって邦人学者によるその後の新種発見による学名も、後々、外国文献で調べるにおよんでフォリー師がすでに発見し、欧米の学者により命名されている種が多数あったのである。
日本における植物について体系的にまとめた大井次三郎著「日本植物誌」(1959)の学名索引から、フォリー神父の名前が冠された植物をアルファベット順に並べると、下記のようになる。和名にフォーリーと名付けられたものは、属名で1件、種の名前として4件。学名にFAURIAとかFaurie、Fauriana、Fauriae、Fauriella などと付けられたものは、属名で2件、種名で66件におよぶ。
 分類学の進展にしたがって学名は変更されていくことも少なくない。新種として記載されたものが、過去にすでに記載されていたとして最初の種名が採用されたり、同じ種と考えられていたものが後になって別種であったとして独立したり、さまざまである。具体例として前述の大井氏が1959年に整理したものを、「改訂増補 牧野新日本植物図鑑」(1989年初版、小野幹雄、大場秀章、西田誠編集)で照合すると、下記学名にもワタスゲの Fauriei vaginatum に、チシマリンドウの Farieiauriculata に、ヨツバシオガマの Fauriei chamisonis Stev. var. japonica と変更されたりしている。ほかにもこのような事例が見られる。
フォリー神父の名が少なくなることは寂しいことであるが、連綿と受け継がれていく研究成果にもとづくものであれば致し方がない。しかし、これらの植物には神父の心血が深く注がれたのであり、野外を歩きながらこれらに出会うとき格別の愛着を感ずるのである。




M ミヤマオダマキ Ancistrochloa Fauriei

N ヨツバシオガマ Pedicularis Fauriei


□ 和 名

フォーリーガヤ属 SCHIZACHNE
フォーリーガヤ Schizachne Fauriei Hack.
フォーリーアザミ Saussurea Fauriei Franch.
フォーリーダケ Bambusa Fauriei Hack.
フォーリーブシュカンゴケ Lophozia Fauriana Steph.

□ 学 名

○属 名
イワイチョウ属 FAURIA
ハイエダウロコゴケ属 FAURIELLA

○種 名
Acer Fauriei Leveille et Vaniot トネリコバノカエデ
Achyranthea Fauriei Lev. et Van. ヒナタノイノコズチ
Ainsliaea Fauieana Beauverd ホソバハグマ
Alnus Fauriei Leveitle ミヤマカラハンノキ
Ancistrochloa Fauriei (Hack.) Honda ミヤマオダマキ
Andreaea rupestris Hedw. var. fauriei (Besch.) Takaki クロゴケ
Arabia Fauriei var. grandiflora Nakai ウメハタザオ
Asarum Fauriei Franch. ミチノクサイシン
Aster Fauriei Lev. et Van. ダルマギク
Calamagrostis Fauriei Hack. カニツリノガリヤス
Cardamine Fauriei Franch. エゾワラビ
Carex Fauriae French. ヒメガウソ
Carex Fauriei Eranch. ヒロバスゲ
Chry sosplenium Fauriae Franch. ホクリクネコノメソウ
Cirsium Fauriei Nakai タイアザミ
Clinopodium Fauriei var. japonicum (Franch. Et Savat.) Hara イヌトウバナ
Diarrhena Fauriei (Hack.) Ohwi ヒロハヌマガヤ
Epilobium Fauriei Leveille ヒメアカバナ
Eriophorum Fauriei E. G. Camus ワタスゲ
Fagara Fauriei Nakai コカラスザンショウ
Fauria japonica French. (= Fauria Crista-galli Makino) イワイチョウ
Fauriella tenuis (Mitt.) Card. エダウロコゴケモドキ
Festuca Fauriei Hack. ヤマトボシガラ
Fraxinus Fauri Leveille フシノハアワブキ
Frullania fauriana Steph. ヒロハヤスデゴケ
Gentiana Fauriei Lev. et Van. チシマリンドウ
Genum Fariei Leveille カラフトダイコンソウ
Hypericum erectum var. Fauriei Keller オシマオトギリ
Hypoptrrygium fauriei Besch. クジャクゴケ
Ilex Fauriei Lev. et Van. オオツルツゲ
Juncus Fauriei Lev. et Van. ミヤマイ
Juncus Fauriensis var. kamischatcensis Buchen. ミヤマホソコウガイゼキショウ
Juncus Fauriensis Buchen. ホソバコウガイゼキショウ
Lagerstroemia Fauriei Kochne ヤクシマサルスベリ
Leontopodium Fauriei (Beauverd) Hand. Mazz. ミヤマウスユキソウ
Lespedeza Fauriei Leveille オオバメドハギ
Liglaria Fauriei (Franch.) Koidz. ミチノクヤブタバコ
Lonicera Fauriei Lev. et Van. スイカズラ
Lophozia Fauriana Steph. フォーリーブシュカンゴケ
Luisia Fauriei Schltr. タネガシマボウラン
Mazus Fauriei Bonati セイタカサギゴケ
Nepeta Fauriei Leveille ミソガワソウ
Papaver Fauriei Fedde リシリヒナゲシ
Pedicularis Fauriei Bonati ヨツバシオガマ
Pertya Fauriei Franch オヤリハグマ
Phyllostachys Fauriei Hack. ハチク
Pieris Fauriei et coreana Lev. シャシャンボ
Polygonatum Fariei Lev. et Van. ウスギワニグチソウ
Potamogeton Fauriei (A. Benn.) Miki アイノコヤナギモ
Primura Fauriae Franch. (=Primura Furiae var. samani Montana Tatew. ) ユキワリコザクラ
Pyrola Faurieana H. Andr. カラフトイチヤクソウ
Phododendron Fariae Franch. (Phadodendron Fauriae var. lutescens (Koidz.) Takeda) ハクサンシャクナゲ
Phododendron Fauriae var. rufescens Nakai シロバナシャクナゲ
Phynchospora Fauriae Franch. オオイヌノハナヒゲ
Radula fauriana Steph. ナガケビラゴケ
Rhacomitrium fauriei Card. タカネスナゴケ
Rhybchospora Fauriae Franch. (var. leveseta C. B. Clarke) コイヌノハナヒゲ
Salix Fauriei Seemen シバヤナギ
Saussurea Fauriei Franch. フォーリーアザミ
Saxifraga Fauriei H. Boiss. キヨシソウ
Schizachne Fauriei Hack. フォーリーガヤ
Senecio Fauriei Lev. et Van. オカオグルマ
Spiraea Faurieana C. K. Schn. エゾノシジミバナ
Valeriana Fauriei Briquet カノコソウ
Vicia Fauriae Franch. ツガルフジ
Viola Faurieana W. Becker テリハタチツボスミレ




◇    編集者あとがき    ◇ 

これまで紹介してきた郡場寛先生(1882〜1957)は、明治28年の13歳のとき八甲田山に初登山し、その後、札幌、京都、シンガポールなどと植物学の権威として内外で活躍されたが、八甲田山はかけがえのないふる里の山として幾度となくここを訪れ、高山植物に意を注がれている。大町桂月(1869〜1925)は、明治41年に最初に同地を訪れて以来、大正14年までの間6年、596日間にわたり滞在し、晩年は蔦に籍を移した。  今回紹介したフォリー神父(1847〜1915)は、明治15(1882)年から大正4(1915)年まで30年間にわたり、青森県を拠点に国内、海外の植物研究に捧げた。  先覚者3人の八甲田山あるいは青森県での足跡をみると、フォリー神父と郡場先生は明治28年から大正4年までに何度か触れあう機会があった。大町桂月を郡場先生がみずから八甲田山を案内するなどの交流があった。ところが、フォリー神父と大町桂月の場合は、桂月は最初に明治41年に青森県に14日間滞在しただけで、この期間の八甲田山中での出合いはおそらくなかったのではないか。ただ、酒の詰まったひょうたんを腰にぶらさげ山水草木を探勝する桂月と、薄汚れた黒いスータンをまとい植物採集用具や標本を背負った神父の姿を想像するだけでも、先覚者たちの心を引きつけた八甲田山そのものに畏怖の念を抱かせてくれる。

◇ 追 記
 フォリー神父は大正2(1913)年11月に長かった青森での布教と植物調査にピリオドをうち台湾に渡った。翌々年の大正4年5月まで同地で精力的に植物採集をすることになるが、不幸にして台湾山中で鼻腔内深くヒルに食い入られ、これが原因で命を失うことになる。大正6年、台湾と日本の神父を想う人々により台北植物園内に神父の胸像が建立された。
筆者は1965年3月から5月まで台湾各地を主に蝶の生態調査で歩き回っていた。台北滞在中には神父を偲びながら植物園を訪ねた。勿論、胸像は太平洋戦争の終戦直前に金属回収のため取り壊されたということで、その場所さえ確認することができなかった。山中深く分け入っての調査では、台湾の植物相の豊かさにはただただ驚くばかりであった。中央山地の祝山(旧・阿里山)に登り4000mクラスの玉山(旧・新高山)連山を眺めた。また仁愛(旧・霧社)奥地の山地同胞(旧・高砂族)の部落に寝泊りしながら、急峻な渓谷地帯での調査も行った。このような植生環境を目の当たりにしながら、およそ50年前の神父も経験したであろう歓喜と辛苦の双方が混沌として思い出され、感慨深いものがあった。




P 台湾中央高地。嘉義県祝山(旧・阿里山)から玉山(旧・新高山)を望む。
(1965年4月11日、室谷撮影)



Q 台湾中部南投県仁愛郷(旧・霧社)の紅葉(旧・マカナジ)の山々。
(1965年4月28日、室谷撮影)

◇ 引用・参考文献
秋蝶(郡場徹)(1913)「植物学界の権威・仏人フォリー氏のおかげで本市は日本の植物学府」、東奥日報6月17日、18日号。
木梨延太郎(1928)「ウルベン・フォリー神父」、東奥日報12月5日号。
郡場寛先生遺稿集刊行会(1958)「郡場寛先生遺稿集」、京都大学理学部植物学教室。
大井次三郎(1959)「日本植物誌」、至文堂。
小野 忠亮(1970)「北日本カトリック教会史」、中央出版社。
佐藤圭一郎(1970)「偉大な植物採集家 ウルベン・フォリー神父」、鏡陵第2号(青森県立弘前高等学校鏡ヶ丘刊行会)。
青森県立郷土館(1974)「青森県植物研究年譜」、青森県立郷土館。
小野 忠亮(1977)「宣教師・植物学者 フォリー神父」、キリシタン文化研究会。
室谷 洋司(1985)「青森が日本の学府 フォリー神父と植物採集」、ATVホームニュース290号(青森テレビ)。
牧野富太郎(1989)「改訂増補 牧野新日本植物図鑑」、
____________________________________________________________________________________________________________________(文責・室谷 洋司)
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第1回 郡場 寛先生と八甲田山    第2回 大町桂月、天上の神苑に遊ぶ   第3回 桂月と蔦の神秘境

  第4回 フォリー神父と植物採集    第5回 桂月と十和田湖     第6回 桂月と奥入瀬      第7回 和田干蔵先生とモリアオガエル