八甲田山 ナチュラリストたちの花園

八甲田山は、豊かな山の恵みをたくわえ、科学、芸術、文学などさまざまな分野で訪れる人の心を躍らせてきた。そこは「ナチュラリストたちの花園」であり、さまざまな文献・資料に生きいきと描写されている。しかし、これら先人の精魂こめたかけがえのない証しも月日が流れ年を経るにつれ雲間のあなたに遠くなりつつある。「年年歳歳、山も人も同じからず」のいま、その足跡を辿るのも意義あることと思う。




第1回 郡場 寛先生と八甲田山    11月12日
〔 こおりば かん、1882〜1957 〕    


   目  次

「八甲田大岳の初登り」(絶筆) ・・・・明治28(1897)年、満13歳の大岳登山 「櫛が峯」(絶筆、未完)    ・・・・未完で終わった櫛ヶ峰行 「八甲田山スキー跋渉記」    ・・・・大正7(1918)年の八甲田山に初シュプール 「花の八甲田」(大町桂月)   ・・・・大正11(1924)年の桂月の同行登山記 「遺骨観」「宗教ト信仰」(遺稿)・・・・郡場先生の遺骨は大岳の高山植物に施された 「生物学閑話〜郡場 寛博士との対談」(抜粋)・・・・八甲田山関連の一部 「郡場 寛博士の記念碑」 「編集者あとがき」



写真@鳥海山南西斜面1200m付近で。(昭和31年9月20日、遺稿集から)

    八甲田大岳の初登り(絶筆)

   明治28(1897)年、満13歳の大岳登山 ・・・・・・・    郡 場   寛


 私はこれまで方々の山々を歩きまわつたが、一番印象を残しているのは初めて登つた八甲田大岳である。それは今から63年前、数え年14才の夏で、一行は二つ年上の従兄と人夫2人の4人連れであつた。当時はまだ路らしい路はなく、通路も今とはやや変つていた。酸湯から硫黄山までは笹やぶ、その上は大岳の谷合を経て頂上に達するのであつた。当時の私は山に対する予備知識もなく、大岳は酸湯から手にとるように見えるので、手軽に考えて人夫たちについて行つたのであつた。
 温泉から硫黄山までの笹やぶは、昔硫黄を採掘した時の路が溝をなして残つていたが、熊笹が両方から生いかぶさり、先に行く人から竹のシッペイ返しが来るので、両肘を前に出し顔を防禦しながら進む窮屈な坂路であつた。
 それが約1キロ半で漸く済むと、硫黄山となり急に開放されてヤレヤレと思つた。初めて見る硫黄沢の巨岩怪石、異様な景色の中を登ると、今の仙人平の手前で、大岳から真直にさがる谷合となる。この谷は後に梯子登と呼ばれた急坂で、谷合の矮樹の横枝が交錯し、頭を打つやら脚をさらわれるやら中々困難である。とても通れない所は人夫がナタで枝を切り開き漸く進んだ。笹やぶとは又違つた苦労を味わつた。
 谷は次第に浅くなり遂に灌木帯に出ると眼界が急に開けて来る。地獄湯や酸湯は目の下に小さく見える。ここを更に登り、噴火口の縁から頂上となるが、下界では想像も出来ぬ変つた光景である。野原や、やぶしか知らなかつた自分には、樹界を越えた矮生潅木の褥の上を自由に跳び回わり、近くや遠くの山々、県の三方を廻らした海洋を眺め、可憐な高山植物を目の前に見つめたり、散点する岩石のあるものを人かと怪しんだり、実に雲上の別天地、さながら仙境に遊んだ心地であつた。大自然に溶け込んで仕舞つたのである。
 大岳その他の登山路は今ではよく開け、笹やぶをこぐにも及ばず、梯子登りもなく、仙人平を軽い気持で通り、さして困難もなく登られ、従つて登山の苦労も薄らいで来たようだが、60余年前には、平地の子には想いもかけぬ難渋な路であり、大仕事であつた。然し頂上を極めた時の愉快さ満足さはそれだけまた格別なものであつた。
 私はこれまで名のある山は二十幾つ、海外でも三つの名山に登つた。みなそれぞれの特徴があり困難な山もあつたが、然し初めて登つた八甲田大岳の印象は、今も私の脳裏に最も深く刻まれている。私はこの時以来自然の子として育つたように思う。
(「陸奥新報」1957年12月24日。郡場先生の絶筆。初発病の昭和32年12月14日午前中、「陸奥新報」のために御執筆脱稿のもの。)





写真A八甲田山における郡場先生。左から川口栄之進(先生夫人の父)、先生、郡場正之(先生次男)、良明(同三男)、白戸みどり(同姪)、直邦(同長男)、白戸正(同甥)、白戸修(同)。(大正11(1922)年夏。大町桂月撮影?。生物学閑話より)

写真BC大正11(1922)年の酸ヶ湯温泉。(郡場先生撮影。生物学閑話より)



    櫛 が 峯

   未完で終わった櫛ヶ峰行 、年代不明 ・・・・・・・     郡 場   寛


自然に対する敬慕、自然を知ろうとする自分の探求心は〈この時に根ざしたようであると思う〉
 八甲田の山歩きで今一つ印象を止めているのは櫛ヶ峯越えである それは東大地質学三年生の川崎という人が八甲田山の地質研究に来て居り酸湯から荒川を登り櫛ヶ峯から中野川を下つた時の事である 人夫一人をつれて早朝出発し諸所岩石を揆きながらの旅行である 荒川上流には三階瀧 七瀧などの急所があるが櫛ヶ峯近くになると殆ど平地のような迂廻した静かな流れとなり やがて峯の麓になる 北尾根は低い笹やぶで東西共見おろされ最も人里遠い深山である
 尾根を下り西の方に中野沢の方へ少しく降つて夜営した 当時はリュックサックもなく原始的な山歩きで採集胴卵と不呂敷包を肩にかけ 草鞋ばきで谷川をこぎ渡るので足が冷え 別段防寒着を用意したのでもなくトドマツの下で一夜を明かしたのである 時は九月の初で山はかなり寒く 月は皎々人夫の焚火の方に足をやりながら眠るのであるが 谷川を渡ったまゝの濡れた足袋が冷え殆んど脹れなかつた 翌日も時々〔未完〕
(絶筆。この南八甲田山の文は前文からそのままつづくものと思われるが、「陸奥新報」への原稿には加えられずに終ったもの。「郡場寛先生遺稿集」1958年、126頁収載)



写真D大正元(1912)年12月、スイス・グリンデンワルド村ホテル・アドラー前で。左から松濤泰巖(奈良女高師教授)、郡場先生、丸谷、八木、槙有恒の諸氏。(生物学閑話より)


    八甲田山スキー跋渉記           

   大正7(1918)年の八甲田山に初シュプール ・・・・・・   郡 場  寛


 僕は札幌農科大学生木原均、岡見聞多両君と共に人夫2人を連れて八甲田山へスキー旅行をした。
 2月27日に青森を出て山麓の雲谷へ1泊、其後山腹の酸湯温泉へ3泊し3月3日八甲田山を縦断して無事帰青した。・・・・、この山をスキーで跋渉したのは僕等が始めてであり・・・・若し少しでも本県のスキー界に裨益する所があれば幸甚である。 八甲田へは僕は20余年来既に40〜50回行っている・・・・が冬の八甲田山は未だ見た事がない、・・・・所が僕は昨年札幌でスキーを練習し・・・・スキーの極めて重宝な事を知った。
〔中略〕
所が其話が新聞に出て札幌のスキー仲間に知れ木原、岡見両君から突然電照があり、返信する間もない内に青森にやって来た。此両君は僕の教えた学生であるがスキーは僕の先生である・・・・実に百万の味方を得た様な気がした・・・・。
2月27日。人夫の一人〔鹿内辰五郎、俗称与市、野尻の男で在郷軍人、体力強健で八甲田山を熟知〕が食糧の大部分を持って雲谷へ先発。吾々は昼過柳町川口方を出た。服装は毛糸のスェーターとジャケツ、其上にソフトシャツ、背広服をつけ毛皮の帽子を戴いた。木原等はうす着で、スキー服、スキー帽、食糧は米・ミソ・つけ物などは酸湯にあるから、ゴマ餅2升(砂糖を加え堅くならぬようにしたもの。メリケン粉を入れると更に軟き由、浅虫の鯨餅もよいだろう)、クルミパン20個、牛カン2、ハムカン1、福神漬1、バタ半斤、氷砂糖1斤、ケイ卵、種無ブドウ、サツマイモ切干、水無アメ、ドロップス、ミカン若干。他に着がえのスェーター、ジャケツ、手袋、吹雪用頭巾、黒眼鏡、スキー用海馬毛皮(アザラシの毛皮なら更に有効)、アイスクレーパー(金カンジキ)、気圧計、寒暖計、写真機、磁石、水筒等は皆背嚢に入れて各自携帯。
 午后2時30分、荒川の踏切を越えた所からスキーをつけ、妙見を目がけて出発、途中適当な斜面で遊びなどして、吹雪のかなり強くなった時雲谷村の亥之助方へついた。
〔以上27日の項かなり要約〕
 2月28日。別の人夫雲谷男(仮称)も参集、与市は軍用ラッパを掛け、雲谷男は猟銃を肩にしていた。8時半出発。進軍ラッパ勇しくひびく。吾々3名はスキー、人夫の2人はカンジキでついてくる。オフェア坂に至る〔以上要約〕。与市は此坂はスキーでは中々登れまいと思っておったらしいが、木原・岡見が易々として登ったのでしきりに感心した。・・・・折々滑降も交え、凡そ半里で茅野着、更にお援け小屋へつき休んだのは11時・・・・。
 昼食後11時半出発、これからはいわゆる長登である。・・・・長登の途中から右に折れ新開の夏道に沿うて進んだ。・・・・二十森あたりから樹氷がみえてきた。・・・・この辺では枝の西側にだけ発達し、・・・・酸か湯附近では2寸以上の巾になっておったのもあった。遠くから見れば雪のついたのと似ているが、上につかずに横についている。これを口にするとちょうど軽焼ぐらいにポリポリする。
 田茂萢沢で再び小憩。・・・・急激な勾配もスキーの角づけで楽にこえた。角付けをするとつまり6尺余の板で水平に支えることになるのだから安定なわけだ。
 冷水―硫黄精煉場―砥滝沢―文七沢をすぎ湯坂の上に達したのは3時30分。スキーの雪を落し、?を塗り湯坂2町の滑降をやった。・・・・人夫共は下にいて、ちょうど活動写真でも見ているように、しきりに感興的な声を発する。僕がころんだのは、殊に面白かったそうだ。木原・岡見は難なく降りた。雪を払い温泉客舎に入る。温泉には当時番人2人と北海道からの浴客4人おった・・・・。
 3月1日。はじめ快晴。元の鹿の湯の上で記念撮影後9時10分出発。大岳項上―井戸岳赤倉岳の東側―田代温泉宿泊の予定。大体夏道通り進んだが、赤水で人夫と別れ、硫黄山の向い側岩崖から、ら線状に大岳を登ろうとしたあたりから吹雪の雲中に入こんだ。登るに従い風は強く雪も烈しくとぶ。アオモリトドマツも樹氷と雪とにおおわて緑葉が少しも見えない。さながら氷柱の森林である。その形竜の如く虎の如く又妖怪の如しとでも形容しようか・・・・。地の雪も凸凹甚しく大戸瀬・笊石あたりの岩上を行くが如しだ。かような氷岩を伝わり氷林の間をぬい廻り登ったときの有様は此旅行中最も印象を深からしめた。
 夏路の梯子登の上方を過ぎ赤水沢上流の萢の上(1400m)あたりまで廻った頃には吹雪は益々烈しくなり・・・・そのまま進んでは危険であるから一先、下の沢まで下りようという事になった。此時ほとんど咫尺を辧ぜず寒気又凛烈。おくれてついて来た人夫達とやっと合流、下りはじめたが木原は7尺2寸のうすいスキーをはいていたので、折るまいとてすこぶる骨を折った。・・・・降る雪は谷下から真すぐに打上げて来る。前を見てると雪がピシピシ瞳を打ち、涙が出てとてもたえられない・・・・。与市その後の談では、かような吹雪の時には馬の尾で織った布(篩の底布)の目かくしが良いとの事だ。・・・・正午酸湯帰着。夜7時頃青森から浴客5人が来た。非常に難儀したそうだ。
 3月2日。吹雪はなおつづきやむなく一日滞在。午後吹雪をかえりみず湯坂の滑降をやった・・・・。傾斜の強い所は40°はあるらしいが、雪が深いので直滑降もできた。転ぶと体が雪面下に没入し所在を失する位。・・・・3日の滞在で食料の大部分は消費された。明日は是非とも帰青の予定。
 3月3日。吹雪も弱まったので8時20分出発。雪に止められておった浴客4人も続いた。坂を登り大体冬道の通りに進む。・・・・スキーが1尺沈む所ではカンジキはその跡をあるいても2尺以上沈む・・・・兎と亀のようだ・・・・。スキー隊の中でも先頭と殿りとでは余程労力の差がある。先頭を排雪機関車と呼び、殿は展望車という。・・・・僕は多くは展望車でやって来たから非常に労力が除けた。鍋壊の坂を登り毛無岱へ出た。冬道はこれから左へ折れ田茂萢岳を左に廻って長登を下るのであるが、僕等本日の予定は、田茂萢と赤倉の中間を登り越え、平岳を通り前岳の南腹に出て東方の斜面(ここに好斜面のある事は僕は或絵はがきで見ておいた)を滑降して遭難記念銅像を訪い帰青するのである。そこで右へ折れ一坂登って上の岱へ出た。
 所が浴客は自分らだけでは進めないのでゾロゾロと皆スキーの跡を追うて来た。僕らのとる路はこれから300mも登らなければいけない。しかし、彼等は僕等をはなれず、気の毒ながらついて来させることにし、こんな氷林の景色はめったに見られないからというてなぐさめてやった。
 田茂萢、赤倉中間の峠で吹雪又々はげしくなり、余はただ陸地測量部五万分一地図と磁力とに信頼して進路を定めた・・・・途中、与市が雪庇から落ち、自力ではい出すに10数分かかった。3丈ばかりもおち、口まで雪が詰まり、一時はだめかと思ったが、背負っていた鉄砲の所に明間ができ、やっと抜けでたとのこと・・・・。
 盆地を登り平岳へかかった。雪庇をさけトドマツ密林の中を行った。迷い迷いして予定通り鳴沢の側へ下りた。銅像は黒点のように立っている。
 これからは大滑降である。ここでカンジキ連と別れ、そのまま急ぎ滑降をつづけた。豪壮なる滑降空を切り雪をとばすこと十余町。この滑降は今回のスキー旅行の主なる目的の一であった。雪は良し傾斜は強く且つ長いので、思う存分滑降の壮快ぶりを味わうことができた。また傾斜がややゆるい所では、樹の間をぬいぬい、身も気も軽く・・・・天女が三保の松原を舞い廻った時はかくもあろうかと思わせる・・・・やがて銅像を訪い、用意したトドマツの小枝を捧げ記念の撮影をした。遭難当時スキーが若し伝令使だけにでも活用せられておったなら或いはこの銅像も建たなかったのだろうと思うと誠に感慨おく能わざるものがある・・・・。
 小峠の下からは傾斜がゆるく、ほとんど滑降が出来なかった。幸畑近く長尾愛三君の谷量舎で、バケツに湯気の立っているしぼりたての牛乳、お菓子、そばパン、もち、ココアなど数々の御馳走になった。ここに謹んで御礼申上げる。
 これにカをえ、40分後、再びスキーの人となり、凍死軍人の墓地を左に見、幸畑を通り、橋を渡って駒込へぬけた。この時日既に没し、松森村を左に見て滑降1里。7時半頃ようやく栄町の自宅へついた。カンジキ連も無事横内へついたそうだ。
 大岳の項上を極めえなかったのは残念であるが、スキーとカンジキの優劣はよく実見せられた。若雪の内はカンジキの優る所は一つもない。雪が深い程、傾斜が強い程カンジキは劣ってくる。労は多く速度はにぶる。雪がくっつく時にもスキーの上りは楽になる。又堅雪の急斜面を登る時にも角付けが出来る以上はスキーは迅速である。山を下る時にはカンジキはとてもお話にならない。交通でも登山でもスキーさえあれば冬はかえって夏よりも便利になる・・・・。終にのぞみ僕は、僕と此行を共にし種々な援助を与えてくれた木原、岡見両君に対して深く感謝する。(3月15日東京にて記す。)
〔八甲田山を下りて、久し振りに新聞を読んだら、吾々が八甲田山で消息をたち、遭難したのではないかという小さい記事があった。しかし吾々は2日間、酸か湯温泉であらしをさけ、大きな浴槽の中で泳いだり、一部屋に集まって退屈をしのいでいたのである。八甲田山は大正7年頃には冬の登山をする人は皆無だった。(編集者・木原 均氏の注記)〕
(「東奥日報」1918年3月に7回連載。長文〔約9400字〕につき一部省略、一部要約して5分の2にちぢめた。「生物学閑話」第2集、1966年、255〜260頁収載。)



写真E桂月翁は郡場先生に戯画(自像)と歌を贈った。上図は「蔦温泉帖」(昭和4(1929)年)からの転載で先生に贈ったものには落款がない。歌は「お花畑 雲にとられて ひとりかな」。


    花の八甲田(抜粋)           

   大正11(1924)年の桂月の同行登山記 ・・・・・・・・     大 町 桂 月


 陸奥の八甲田山は海抜5230尺にして、偃松帯を有す。お花畑殊に多く、高山植物豊富にして、その種類1千の上に出づ。その偃松帯の中に、一仙女棲めり。八甲田山上45里四方にかけ峻厳を厭はず、叢を避けず、猛獣毒蛇を物ともせず、路もなき深山幽右を単身にて踏みわけ、高山植物を友とすること数十年、今や齢は70歳になんなんとして、意気なほ盛んに、東京の植物園を初め広く天下に高山植物の標本を分かちて、自ら楽めり。世には山に入りて高山植物を友とするもの少からざれども、概して夏季のみなり。この仙女は、常に山中に住めるを以て、夏のみならず、春も友とし、秋も友とす。年が年中高山植物と相接する点においては、天下この仙女の右に出づるものなかるべし。この仙女と共に、天上の神苑にあそばずや、蔦温泉より数里の程に過ぎず。陸奥の人士は、十和田、奥入瀬。蔦温泉より八甲田へかけたる一体の山水を国立公園となさむとするなりといへば、小杉未醒画伯快諾す。鹿内辰五郎氏導をなし、小笠原氏、神代氏も共にして蔦温泉を発す。
〔中略〕
 根曲り竹の中を下るとなしに下りて、地獄沼に至れば、光景また一変す。沼の広さ数10間四方熱泉湧きて、その色黒し。石を積み重ねたる賽の河原、地蔵菩薩の側、郡場寛、川口栄之進の諸氏に迎へられ、酸湯温泉に至りて、例の仙女に迎へらる。仙女はお花畑にうまれたるにあらず、下界にも縁ありて、白戸氏はその女婿なり。川口氏は白戸氏の兄にて、青森市の弁護士会長なり。郡場氏は仙女の長男なるが理学博士にして、植物学を専攻し、京都大学の教授として令名あり。この母にして、この子ありといふべきなり。郡場博士は35、6歳に見ゆ。色黒く、口しまリ、精悍の気、眉宇の間にほとばしる。軍服つくれば、乃木大将の再生かと思はるゝ顔付きなり。
 天候悪きが為に大嶽に上る能はず。時間を持たぬ未醍画伯の神代氏と共に失望して山を下るを途中まで送り、別れて嫦娥渓〔現在は城ヶ倉と称す〜編者注〜〕を見物す。危険なればとて勇者のみをえらび、郡場博士導をなし、鹿内氏輜重を司どる。崖高く、谷深く緑葉殆んど天を掩ひつくさんとす。
 谷青葉の合兼ねる空や雲走る 聞きしにもまして、危険なり。急湍を幾度も徒渉せざるべからず。巌より巌へ飛ばざるべからず。懸崖を蝸付し過ぎざるべからず。郡場博士は一向平気に、好風景にあふごとに撮影しては一行を導き、矯捷にして、余裕綽々たり。〔後略〕
(「桂月全集」1924年から抜粋。)



F八甲田山における大町桂月翁(左端手ぬぐいを頭上に)。右より二人目の腰に手をあてて天を仰ぐのが鹿内辰五郎氏。(大正11(1922)年夏、郡場先生撮影、生物学閑話より)


◇    遺 骨 観         

         ・・・・・・・・・・・・・  郡 場  寛

人間ハ生ヲ天ニ亨ケ動植物ニ養ハレテソノ天命ヲ全フスル 火葬サレルト有機物ハ烟トナツテ昇り雨卜共ニ降り再ビ動植物更ニ人間ニモ入ルガ骨ハ無機物卜共ニ残ル 此中ニハ植物ノ好ム燐酸石灰ガ多分ニ含マレル 植物カラ得タ養分ノ死蔵デアル 粉末トシテ植物ニ与ヘル方ガ物質運転ノ廻路ヲ早メ天意ニ即スルノデアルマイカ 土葬ノ場合ニハ殊ニ死蔵サレル部分ガ多イ 之ヲ自分ノ遺物トシテ保存スルノガ果シテ適当デアロウカ 個性へノ執着デハナカロウカ 若シ子孫ガ追慕シタイノナラバ墓碑ダケデモ充分デアル ソレモ決シテ永遠二残ルモノデハナイ
個性ハ二次的デアル 二次的ナ個性ヘノ執着ヲ我ト観ズルノハ末ダ悟ラザル階程デアル 霊魂不滅ノ老モ個性ヘノ執着デアル(「遺稿集」1958年、43頁頁収載。)

◇    宗教卜信仰         

         ・・・・・・・・・・・・・・・・ 郡 場  寛

宇宙ハエネルギーヲ包含ス 物質ハエネルギーノ一ツノ状態デアル 而シテ様々ナル物質分子ニ形ヲカヘ他ノエネルギーヲ利用シテ物質界ヲ現ジ 地球上ニテハ生物トナリ ソレガ進化シテ人間トモナツタ 動物ニハ概念モ天ヲ結付ケタ考モナイガ 人間ニハ脳神経系統ガヨク発達シ 智 情 意ガ分化シ複雑ナ心的現象ヲ展開シテイル 脳ニハ概念 思考 想像ナドノ働ガアルノデ恐怖 哀愁 憤怒 愛愁(ママ)ナドガ起ル 近親ヤ自分ノ病気ヤ死ニ対シテハ悪魔 鬼ナドノ想像ガ起り神仏ノ加護ヲ感ジ個人ノ死ニ対シテハ ソノ霊魂ノ存在或ハ不滅ヲ信ジ 祈祷 祭祀ナドノ行事モ起ツタ ソシテ人智ノ発達ハ更ニ神学 仏教ナドノ著シイ発達ヲ来サシメタ マタ故事ツケタ理論モ多イ 社会環境ノ複雑トナルニ伴ヒ道徳的思想モ発達シ 或ハ之ニ宗教ヤ哲学ノ加味サレタ思想モ発達シタ 尚教養ノ足リナイ人タチニハ新興宗教モ沢山出来 深イ理論ハナクトモ割合ニ入易ク人心ヲ安定サセルニ役立ッテイルモノモアルガ 稀ニハ利益本位ノ如何ハシイモノモアル 宗派トナルト群集心理モ働キ 稀ニハソレデ隆盛ヲ極メルモノモアルガ 同時ニ縄張ガ出来テ他卜対立スル事ニモナル 然シ何レノ宗教デモソノ最後ノ目的ハ人間ニ安心ヲ得サセル所ニアル 之ニハ教典ヤ説教モ必要デアル 個人ノ人格ニ信頼スルノハ最有効デアル 教義其モノハ各宗ニヨリ様々デアリ 如何ニ説イテモ夫ダケデハ頭脳ノ表面ノ進歩ニ過ギナイ 心ノ奥底ノ納得ガナケレバナラヌ 奥底ノ納得ガ経典ニヨルカ 他人ノ言動ニヨルカ 自然ノ環境ニヨルカ 偶然ノ機会ニヨルカ種々デアリ 其当時夫ヲ導イタ心ノ道行モ様々デアル 然シ兎ニ角最後ハ安心ニアル
私ハ此安心ヲ大宇宙ノ実感カラ得タ 自分ノ煩悶ハ之ニヨリ救ハレタ 悟ヲ閑イタノデアル 悟ヲ開クノハ大脳ノ知何ナル変化カハ判ラナイガ 大脳ノ灰白質ト脳底ノ緊密ナ変化カ 神経繊維ノ横ノ連絡ガヨクナルノカ 或ハ其他ノ変化ニヨルノカモ知レナイガ 兎ニ角 悟ヲ開クト社会的ナ物ノ判断ガヨク出来ルヨウニナリ 人ノ話ヲ聞イテモ其奥底ニ横ハル事実ガ可ナリハツキリ掴メルヨウニナル 感情ヲ主トシタ小説 勝負事 表面的ナ論争ナドノ関心ハ段々薄クナル 些事ニ関ハル気ガナクナリ 自分ヨリモ全体ガ注意ノ対象トナリ 全体ガヨケレバ良クナル
若イ内ハ世間万事自分本位ニ考ヘル 他人ヲ世話シ 又ハ親切ニ取扱フ場合ニモ夫ハ結局自分ノ為ニナルカラダト考ヘテオル 所謂情けは人の為ならずデアル 然シ斯様ナ考ハ年卜共ニ次第ニ薄ラギ 自分ノ世話ニナツテイル世ノ中ノ為ニ奉仕シナケレバナラナイトイフ考ニ移ツテ来ル 情けは人の為なりデアル 人間ハ生ヲ天地ニ受ケ 親兄弟ヤ動植物ノ世話ヲ受ケテ生長シ生存シテイルノデアリ 自分一人デ育ツタノデハナイ 世間ハ相持デアル
斯ウイフ気持ニナルト 自分ハ生キテル間ハ世ニ奉仕シナケレバナラヌ 又死後ニモ尚奉仕スル道ガアル ソレハ死ヌト遺骸ガ残ル 之ヲソノママ埋メテ腐食サセルノハ惜シイ 夫ハ人体ハ微細ナ構成ヲモツ生活体デアリ 体ノ諸部分ノ機能ニハ生理的ニ未解決ナ問題ガ多イ コノ微妙ナ体ヲ空シク朽チサセルノハ惜シイ限デアル マタ遺体ヲ埋メルト急ニハ分解セヌガ 焼クト有機物ハ皆烟トナツテ立ツテユキ 雨ト共ニ降下シテ地中ニ入り植物ノ根カラ吸収サレルノデ ソレ丈生体物質ノ循環ヲ早メ豊富ニスル ソレデ死後ハお世話ニナツタ医者ヤ病院ニ病理解剖其他ノ研究資料トシテ屍ヲ寄贈スル ソノ解剖ニハ親類ハ立合ハセナイ 見ルノガツライ筈ダカラデアル 残リノ部分ハ棺ニ納メテ焼却シ 残ツタ骨ハ埋葬セズ粉末ニシテ植物ニ御馳走スル 何所ノ畑デモヨイガ 出来ルナラ八甲田頂上カラ高山植物ノ肥料ニ上ゲタイ 之デハ或ハ遺族ガ承知シナイカモ知レナイガ 墓地ニハ遺髪遺品デ充分デアル(「遺稿集」1958年、9〜10頁収載)



◇    「生物学閑話〜郡場 寛博士との対談」(抜粋、3話)         

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木 原  均 編 

閑話106

昭和24年(1949)10月3日 月曜日 曇
郡場先生室。同席:今村、久米、高田、永井、浜田(前略)
新制大学では制服制帽がなくなった筈だのに、学生が随分つけている。旧制の連中はむしろ帽子などかぶっていない。この間統計をとってみたら、新制医学部の学生60人中、新制高校出身22人、旧制高校1年終了26人、旧制専門学枚の1年終了12人で、ドイツ語は大部分が1年間以上習い、生物学をやったというのも45人いた。また生物学に興味があったというのは25人、なかったのは17人、判らぬというのは3人いた。興味を示す示さぬは大抵教官によるが、初めから興味があったというのも数人いた。逆に高校の先生を“判定できる”わけか。小泉先生も“鶴岡中学でえらい先生にならったからだ!”と云っておられた。
 郡場先生は? 中学四年のとき平塚直治先生にならったからだ!
 お母さまは? イヤ、僕のあとだ! 先生の感化で? エエ・・・・。〔先生の“感化”で八甲田山の植物などを集められた。標本は大部分東北大学八甲田山植物実験所に寄贈された。〕





G“八甲田山の仙女”こと郡場ふみさん(先生ご母堂)。右から良明(先生三男)、長男・直邦、次男・正之君。(大正9(1920)年1月、京都市左京区の先生宅、生物学閑話より)

八甲田山に昔あったが、今失くなったものがある。オオルリソウ(Cynoglossum furcatum; ムラサキ科)やハスノハカズラ(Stephania japonica;ツゾラフジ科)などは見ないようだ。ハスノハカズラは FAURIEがボクの家へやって来て、面白いから、と云って半分フランスへ送りましたよ! マイズルソウは? アレは一番下から上まであります! キクザキイチリソンウ(Anemone altaica)はまだありますか? ええ、あれは萱野ケ原〔中腹の牧場、海抜500m位〕の一寸上の所だけで、酸湯にはございません。八甲田山のフロラは広島文理大の堀川芳雄氏がまとめている由。(「生物学閑話」3集、1968年、208〜215頁から抜粋。)

閑話176
昭和26年(1951)10月1日 月曜日 うす曇り
芦田室。同席:今村、芦田、浜田。 
今村は27日に、浜田は30日(昨日)に東北旅行から帰った。
 八甲田の天気はあまりよくなかったが、今村は大岳に登った、浜田は京都の植物を実験所に植えた〔アキノキリンソウ、トリアシショウマ、カンアオイ、フシグロセンノウ、チゴユリ、メタセコイア、ヒノキ、クロモジなどを植えたがすべて2〜3年で枯れた〕。実験所の設立は先生がおすすめになったのですか?
いや、まあ、だれということないですがな・・・・。遠いが、信州なんかよりはるかに仕事できますよ。水蓮沼というのありますよ、“山の神の田”というのですがな、八甲田は、昔、高田と云い〔神田に由来?〕“八”の字はなかったのですよ! 
白馬にも“神の田んぼ”、立山にも“神の田”がある。―そうそう“田”で思い出したが、三重県でムジナモが見つかりました。木曽川と揖斐川の川口にはさまれた長島という所です。恐らく鳥が足につけて運ぶのだろう。
(後略)
(「生物学閑話」4集、1970年、203〜205頁から抜粋。)

閑話185
昭和27年(1952)1月9日 水曜日 積雪 4cm
同席:芦田、今村、久世、浜田、客人:東北大生物倉石衍君〔京大農学部出身〕。 
一同年頭のあいさつを交わす。
 倉石君が来たので八甲田の話に花が咲く。10月20日に初雪があり、25日に実験所を閉じた。先生は、昔の神嘗祭(10月17日)には紅葉は殆ど終っていたという。鹿内は満72才になったが達者で櫛が峯に登山道をつけると頑張っている。手前の横嶽へ登るにも4時間はかかる。八甲田山系は道路が悪い。道路をつければまだまだ見はらしのよい所がある。 
どこの外国の湖水を見ても十和田湖ぐらい芸のこまかい湖水はない。スイスあたりのでも、ただ氷河でできた単純なもの。昔、山の色彩を紅黄自紫段と云ったことがある。緑が欠けているなどの論あり。また5月頃の鳥の啼声もすばらしい。
実験所内の温泉は全部渇れた・・・・〔東北大学八甲田山実験所。温泉ははじめ所内の6〜7か所からわいていた〕。“牛の湯”のとき(土用の丑の日)が一番にぎやかになる。この日に入浴するとその年中病気をしないという。
地獄沼の吹き出したのはボクの計算では2000年前になりますよ、八甲田山の最後の温泉ですな。とに角東北〔地方〕の有史以前ですわ、桜島とそっくりな所ありますよ!

HI八甲田山の名花・ヒナザクラ。右は11月2日というのに芽だしが見られた。(棟方氏撮影)

八甲田から比叡山に持って来たミツバオウレソが12月20日に咲いていた;ヒナザクラは青森におろすとその年には3度花が咲くが2年目になると1度しか咲かぬという。植物が“これはいかん”と気がつくのだろう、plasmagene の変化か。山では生育期間が2か月もない。
 地獄沼のすぐ下の所に“トドヌエド”というキノコが出る。場所ははつきり覚えている。ハエトリシメジはハエを殺すが人には何ともない。十和田では秋、2斗だる1〜2個にキノコを漬けて冬中食べている。マライでは12月の雨季と5〜6月に出るがphanerogam よりも季節をよくあらわす。毒茸の話、ニワトリは何故かホウレンソウやアカザを食べぬ、など・・・・。
 八甲田で多いランはハクサンチドリ、フタバラン、コフタバランにチドリソウ、オニノヤガラとショウキランはあるがNeottiae(サカネラン)は見ない。また着生ランも見ない。
カヤランは仙台まで、クモランは東京までか・・・・。
ああ、鹿内によろしく!
(「生物学閑話」4集、1970年、217〜218頁から抜粋。)




J郡場先生肖像。(昭和32(1957)年、75回の誕生日、遺稿集より)


◇    郡場 寛博士の記念碑  

青森市の国道4号線。栄町1丁目バス停付近を堤橋方向に向かって歩くと、歩道に面して先生の昔の住居跡に記念碑がある。ひっそりと目立たず、土台まわりのわずかに露出した土面には11月というのに野草が枯れもせずたくましく緑を呈していた。
碑文は4分割され先生の生い立ちからお仕事、八甲田山に散骨されたことなど詳しくしるされていた。




K碑文1                 

L碑文2

M碑文3           

N碑文4


O郡場先生の記念碑は国道4号線・栄町の山手に。


P国道4号線堤橋方向に歩道を歩き左手にある。
.(2001年11月10日)



◇    編集者あとがき    ◇ 

ことの発端は、「青森の自然」の棟方氏が、11月2日の大岳東斜面「駒の雪」のことし最後の調査をし、そのときの報告メールで「これから長い雪の季節を迎えるというのにヒナザクラがまだ芽出し!!」と写真貼付で送ってくれたことであった。「うぅーん!!」と驚きの返信。そして、さらに「ヒナザクラは平地におろすと年3回、花が開くと郡場先生が話している。」と、棟方氏が友人から聞いたことがあるとのこと・・・・。
「さて待てよ、ひょっとしたら・・・・。」 うっすらとした記憶のなかに、大学時代、植物生理を教わった中澤 潤先生(現弘前大学名誉教授で郡場先生の門下)のお世話で頒けていただいた「郡場 寛先生遺稿集」と「生物学閑話」(全4巻)のどこかににあるのでは、と全体の頁をめくってみることにした。ほどなくヒナザクラの話は「生物学閑話」第4巻に昭和26年10月1日の芦田教授(京大、当時)室での対話のなかにみつけることができた(本文に掲げた)。そして秋枯れの一日、郡場先生の八甲田の熱い想いにじっとりと触れることになった。棟方氏にそのことを伝え、「先人の足跡をとどめませんか!? 」とその日の想いをぶっつけた。
「やりましょう。まず郡場先生から・・・・。」
 私が弘前で学んだのは昭和33年からで、その前年の暮れに先生は亡くなっている。学長としての講話は聞いていないが、高校の生物部で浅虫中学校で開かれた「日本植物学会、日本動物学会東北支部第10回大会」(昭和32年8月)で先生の特別講演を聴いた記憶がある。先生の名声はその後おりにふれて聞いたし、弘前に行った年の夏の終わりに先生のお骨が八甲田山大岳に撒かれたということも強烈に脳裏に残っていた。
 ことしは、大岳の「駒の雪」調査で高山植物の逞しさには驚きの連続であったが、岩に腰かけお花畑を見やるとき遠い記憶がよみがえってきた。9月23日、棟方氏は深夜、青森市街地のほの明かりで大岳に登り、太平洋に上った日の光が秀峰・岩木山に八甲田山の影を映した「世にも不思議な写真」(9月23日午前5時27分、「青森の自然」表紙・・・・岩木山に大岳が、を参照)をものにされたが、この千載一遇のチャンスをリュックに下半身を入れながら待ち続けたという。そのとき大岳北東の小噴火口が散骨の場として安らげるのでは、とも思ったと話してくれた。このことも考え合わせながら、郡場先生の遺志とは何であったのかをいぶかしく思っていたが、数十年ぶりに「遺稿集」をひらき改めてその答えも見いだすことができた。
 「遺稿集」には、駒井卓氏(京大名誉教授、当時)が追悼文で「承れば八甲田山に骨をまかれるということですが、まことに郡場さんにふさわしいお考えで、“それは、いい考えだ”と云つて上げたいような気がします。」と述べられ、同書の編集者あとがき(追記)で芦田譲治教授(当時)が「去る昭和33年9月2日、八甲田大岳頂上に於いて散布式を営み、御遺骨の一部は御遺族の手で高山植物に施され、こゝに10及び43頁記載(遺骨観ほか)の御遺志が実現した。弟子代表として浜田稔も参列した。またその前日、御生前先生が何処よりも愛された酸ケ湯温泉及びその附近に記念植樹(約10種)も行われた。」と記している。
 郡場先生は明治28年に八甲田山大岳に登り、いまでは山岳スキーのメッカ・八甲田に初シュプールをも描いた。しかもこのときはイネの遺伝学で高名な文化勲章の木原均博士らと同行されている。もう100年も前の話しである。行のはしばしにケモノたちや野花たちが人知れず謳歌していた、手つかずの自然に踏み込んだときの驚きと歓喜がほとばしる。
 八甲田山に育まれ、植物生理生態について世界的に名声を馳せた先生は、弘前大学の学長に迎えられるまでの8年間、京都大学植物学研究室で毎週月曜日、昼食時に門下生と多方面にわたる話題に花を咲かせた。門下生たちはその意見、着想に多くのヒントを得たという。「生物学閑話〜郡場 寛博士との対談」には、そのような243回分が収録されているが、八甲田山のことや母・ふみのことについて記したほんの一部3回を抜粋で採録した。
 最後に、上掲資料の登場人物や当時日本の植物学者列伝などについて補足しておく。

□「生物学閑話」などに登場する人(卒業年次、1963年9月現在の所属など)
木原  均 :1918年、北大農、京大名誉教授、学士院会員、国立遺伝学研究所所長、遺伝学、文化勲章受賞。
今村駿一郎 :1927年、京大理植、京大農教授、カワゴケソウ、気孔生理、開花生理。
芦田 譲治 :1928年、京大理植、同教授、刺激生理学(ムジナモ)、酵母菌の銅抵抗性。
久米 直之 :1933年、京大理植、京大教養部教授、植物低温生理。
浜田  稔 :1934年、京大理植、京大農助教授、菌根学(菌養ラン、マツタケ)。
高田 英夫 :1941年、京大理植、大阪市大理教授、植物水分生理、酵母菌生理。
□ 師・・・・平塚 直治 先生について
奥州白石藩士平塚直幹の長男。明治6(1873)年10月29日札幌市外白石村生まれ。札幌農学校で学び卒業とともに弘前市の青森県第一中学校に赴任。郡場寛先生は同先生に学び、15歳のとき八甲田山で植物採集の指導を受ける。昭和21(1946)年札幌で没。
□ 郡場先生と日本の植物学者列伝
宮部金吾(北大名誉教授) → 平塚直治(札幌農学校で師事) → 郡場 寛(青森県第一中学校で師事) → 木原 均(北大、京大で師事)→ 西山市三(京大で師事) → その弟子たち。
_________________________________________________________________________________________________ (文責・室谷 洋司)



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