青森県八甲田山の雪形         室谷洋司

明治まで小岳の山名は「鳶形岳」、硫黄岳は「松形岳」

 八甲田山の雪形について文献調査や実地聞き取り調査でまとめると次のようになる.(表@一覧表参照)
●青森平野からの雪形
 私の生まれ育ったところは,青森空港から市街地寄りに下りてすぐの高田地区である.田圃や畑に囲まれ農業地帯で,春も一段落したころ,母からよく「雁」が現れたと聞かされた.これは青森市街地から見た「蟹ハサミ」あるいは「Y」の変形である.(写真E)八甲田山は八つの峰が南北に連なり,見る位置によって山容は刻々と変わっていく.
 「松」(文字)は,「YZ」がさらに消え細ったときに草書体の文字に見えたものである.(写真F)  「マンガ」と「船形」は,文献調査で得たものだが,まだ自信をもっての確証がない.
●青森県東南部からの雪形
 東北地方の中央を貫く奥羽山脈は青森県を東西に二分する.なだらかなコニーデの八つの峰々に描かれた残雪の模様も,当然のことながらガラリと変わる.
 中道等氏は「十和田村史」(現十和田湖町)に,同地方から見た八甲田山を描写し,その中に雪形が躍動している.
 「第一に目につくのが高田大岳.これはまた雲をしのぐ雄偉さで,その円錐形の山と,美しくひく裾野が,見る人々にいつまでも嘆声を放たせる.よく晴れた日なら,左の肩に八甲田山中の主峰といわれる酸ヶ湯大岳をのぞき,その下方にはっきりと鳶形岳,その左に松形岳.
 この鳶と松は春,ここが初めに雪が消えて黒く跡を見せる.羽をひろげて天翔ける鳶の姿,どっしりと能舞台の背景の絵になる老松のさま.それから山の名が生まれたとある.
 昔の人の自然の変易をのがさず見てつかむ鋭い風雅さ,そしてこの跡のありさまによって年の豊凶を卜すること,高田大岳の雪が種蒔き爺のすがたになると,八十八夜の遅速が考えられ急いで種物を用意することと,心もちは同じであった.」
 雪形調査にとりつかれた一九八〇年頃の数年間は,これらを撮影したいものだと,未明の三時には青森市を発ち八甲田山を越えて県南の十和田湖町に向かった.もっとも形の整った雪形の撮影は難しい.その年の天候具合で山の融雪状態が異なる.気温が低い時期だと空気も澄み切ってクリーンな写真がものにできるが,形が完成するころは最近では田植えの時期で水蒸気が多く山がうっすらと隠されてしまう.青森市が晴れていても県南は好天とは限らない.とにかく行くしかない.毎年,この時期になると連日,出勤前の五時間ほどを撮影行に費やした.
 苦労は必ず報われる.中道等氏が同書で示していた「鳶形」の写真は,高田大岳の「駒形」の完成前の間違いを発見したり,当の「鳶形」は小岳にまさにその姿ぴったりの雪形を現すこと,また「松形」の美しさに見とれた.(写真G)
 高田大岳の純白の馬の端正な姿にはしばし見とれた.前足が二本,目までついているではないか.(写真H)今の小岳は,明治時代までは鳶形山あるいは飛嶽と呼ばれていた.(写真I)また硫黄岳は松形嶽と呼ばれていた.(写真J)いずれも県南の人たちが待ちに待った春の雪形から名付けられたもので,山への思いや親しみかたが伝わってくる.小岳とか硫黄岳の現在名はいかにも無機質で冷たく感じられる.
 山名が雪形由来と言われるものに,八甲田大岳について南部で「駒ヶ岳」(北行目録,木村謙次,寛政五年,山崎栄作編,昭和五八年)と「駒形嶽」(安政六年,七戸通御絵図)がある.これらはまだ確認できないでいる. 高田大岳に出現する種蒔き爺も確証を得ていない.
 岩科小一郎氏は「山の民俗」(一九六八年)で高田大岳の雪形を小井川潤次郎氏の図で紹介している.これは筆者が確認したものと同一のもので,次のような説明が付けられている.
 「残雪が馬の形になるのを“駒の雪”といい,田の神さまがお下りになったといって,田植えの季節になる(小井川潤次郎氏).この駒形雪は通例六月初旬に出て八月下旬に消え失せるが,これが消え残って二百十日(九月一日)まで消えぬ年は凶作になると伝え,明治三十五年,大正二年,昭和八年,九年は二百十日に全部消えず九月下旬まであって,東北大凶作の徴を示した.」







表1八甲田の雪形

高田大岳の「駒形」
H高田大岳の「駒形」は天駆ける白馬のようだ。 (十和田湖町湯ノ平。1981年6月24日。室谷 洋司写)
高田大岳の「駒形」 

小岳の「鳶形(トンビ)」 
I小岳の「鳶形(トンビ)」。明治時代まで 鳶形山とか飛嶽が山名だった。 (十和田湖町湯ノ平。1981年5月31日。室谷 洋司写)
小岳の「鳶形(トンビ)」 

 硫黄岳の「松形」
J硫黄岳の「松形」。やはり松形嶽と呼ばれていた。 (十和田湖町猿倉温泉。1981年6月12日。古木誠写)
硫黄岳の「松形」
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